rexzhanghao 发表于 2015-5-23 22:08

水无神知宏对田中罗密欧文笔风格的评价

物书きの武器ははおおざっぱに分类して二つある。 
技术と感性だ。 
多くの作家は主武器をどちらかに固定して戦っている。すくなくとも、自己认识はそうである。 田中ロミオはおそらく、前者を想定して戦っているのだろうと思う。
作家的武器大致可以分为两类。
技术与感性。
多数作家都将其中某一类固定为主武器来进行战斗。至少,我所理解的手段就是如此。
田中罗密欧在写作中说不定是将前者设想为主武器了吧。

 技术のもっともわかりやすい指标は文章そのものである。谁が见ても多くの场合一目で上手下手
がわかる。
技术,最显而易见的指标就是文章本身。无论对谁来说,作家文笔的优劣在大多数情况下都一目了然。

 だが、彼の文章を评価することは难しい。ほとんどの场合、文体を変えてくるからだ。厳密に见るならば、一つとして过去と同じスタイルで书かれた作品はないと思える。
但是,他的文章却让人难以评判。因为几乎每一次,他笔下的文体都会发生变化。严格来看,甚至可以认为他从未写过一篇与过去风格相同的作品。

 确実に言えるのは、彼にとって文体、あるいは狭义の文章などというのは道具に过ぎない、ということだ。目的に合わせて最も适した道具を取り出し、鲜やかに本质を浮き雕りにしてみせる。これがどれほどの难事かは、まとまった文章を书いたことのある人间ならば容易に理解できることと思う。
确切来说,对他而言,文体、或者狭义的文章之类的概念充其量不过是道具而已。他为了达成目的而选择最合适的道具,让鲜活的本质得以刻画并展现于读者眼前。这是多么难为之事,我想只要是亲手写过一些文章之人都能轻松理解吧。

 たとえば妖精さんの台词だ。ひらがなだけで记述し、さらにそれを极限まで切りつめるという过酷な条件を自ら课しながら、それゆえに彼らへ唯一无二の存在感を与える。凡人にできることではない。  笑わせるべき时、涙を绞るべき时、紧张させるとき、解放するとき。绝対に目的を过たず、読者をその通りに翻弄する文章を、确実につづってくる。それも青筋を立てて力说するようなことはなく、多くは洒脱な谐谑を交えて。もはや名人芸の域だろう。
比如说妖精们的台词。只以平假名来记述,并将其句子长度缩减到极致。正是因为他给自己提出了如此苛刻的要求,才赋予了妖精们独一无二的存在感。这绝非常人所能办到。让人开怀大笑之时、让人泪腺崩坏之时、绷紧丝弦之时、解放丝弦之时。他笔下的文字总能确保达成目标,将读者玩弄于鼓掌之间。为了达成这些,不必青筋暴露地极力强调,只需点缀上一些洒脱而又荒诞的情节。这已经算鬼斧神工之技了吧。

 くわえて构成の妙がある。ゲーム分野での仕事をご存じの方にはあらためて提示するまでもないだろうが、一见単纯な话に见える『人类は衰退しました』にもその技巧はすみずみまで行き届いている。缓急、シーンの配置、接続の意外性。すらすらと水のように流れるストーリィに欺されてはいけない。あれは技术の赐だ。技とは技を隠すこと、とはオウィディウスの言叶だったと记忆する。
此外,还有构成之妙。这一点,熟知他游戏作品之人可能都用不着我再次提示了。乍一看让人觉得故事单纯的『人类衰退之后』,但其中也在字里行间深藏了这一技巧。节奏、场景布置、情节发展的意外性。千万别被如流水一般顺畅发展的故事表象所欺骗。那只是拜“技术”所赐。“不将技术外显才是技术的真谛”,奥维第乌斯似乎曾经如此写道。(译注:出自奥维第乌斯的作品《变形记》)

 本人に质せばおそらく「いや、仆はお作法通りやってるだけですよ」と笑うのだろうが。
如果去询问他本人的话,估计只会笑着回应说「哪里哪里,我只不过是中规中矩地这么写了」。

再想到《神树之馆》和希的配合,可能改变了个人对田中罗密欧文笔过于电波的认知,而现在最想找的是《我们没有翅膀》特典小说中他执笔的以羽田小鸠视点的同人作品
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